Kevin Abosch と私が出会ったのは三年前のことだ。作家としては知っていたけれど、実際に言葉を交わしたのはそのときがはじめてだった。二時間ほど一緒に過ごしてみて、展示、写真、デジタルアートやブロックチェーンなど多岐にわたる内容を網羅しながら彼がどれほど博識な人物かを思い知った。正直なところ、当時の自分は彼の話の半分も理解できていなかったと思う。それから月日が流れ、ネット越しのやりとりを重ね、2026年の Art Basel Zero10 Hongkong で再会し、互いにいくつもの経験を経て、ようやくその交わした言葉の意味を知ることがある。時間だけが解いてくれるものが、確かにある。

今回、Abosch が再来日して東京で時間を過ごすというので、彼がいま取り組んでいるプロジェクトについて話を聞く機会を得た。本作「NEW TRUTH」を NEORT++ で展示することで Abosch の見ている世界を共に描けることに光栄に思う。

Kevin がカメラを手にしたのは、五、六歳の頃だという。ロサンゼルスに生まれ、アイルランド、イングランド、ドイツと各地で時間を過ごしてきた。ベルリンを初めて訪れたのは 1987 年のことだ。彼の父が暮らすロサンゼルスのビルには Richard も住んでいて、二人はそこで時間を共にするようになり、ハリウッドに出入りしては冒険を重ね、親交を深めていった。Richard は Nam June Paik のもとで学び、いくつかの展示を通じてアート界にも作品を発表してきたが、その内側へ深く踏み込むことには、どこかで意識的に距離を取り続けてきたのかもしれない。それでも彼は制作を手放したわけではなく、いくつかの作品を発表している。近年の連作《True Transformers》は、主にロサンゼルスで撮られている。iPhone のパノラマ機能をあえて破綻させ、実在する一台の車を、その走査の狂いのなかで別の姿へと変貌させる。ここでカメラは、たしかに現実の車へ向けられている、光も、鉄も、そこにある。ただ、それを写し取る手つきのほうがわざと壊されているのだ。捕獲を残したまま、捕獲を歪める。自由の投影先であるはずの車から、わずかな手立てで「本当の姿」を引きずり出すこの身ぶりは、のちに二人が組む共同作と、ちょうど鏡像をなしている。

いっぽう Kevin は、もともと微生物学の訓練を受け、実験データを可視化する仕事から機械学習の世界へ入っていった。写真をメディウムとする概念芸術家であり、やがてブロックチェーンへと関心を広げていったが、その関心の底にはいつも、データとアルゴリズムそのものへのまなざしがある。彼が 2017 年に手がけた《EARLY EPOCHS》は、今回の共同作の、いわば前史にあたる。当時の生成モデル(Progressive GAN)を、自分のスマートフォンに溜まった写真だけで学習させる。通常この種のモデルは、学習を重ねるほど像を精緻に、写実的に仕上げていく。ところが Kevin は、その完成へ向かう歩みをあえて早い段階で止めた。ネットワークがまだ何も像を結べていない、生まれたての混沌、彼はその抽象をすくい、「表層の真実(surface truth)」と呼んだ。「精度の方向へ向かえ、というアルゴリズムの指令を裏切ることで、機械が私を作家の使命から逸らす前に、意味をすくい取れる」と彼は言う。精度の手前に真実を探すこの姿勢は、動画を見ずに静止画を引き抜き、解像度をあえて落とす今回の本作と、まっすぐ地続きだ。八年前に一人で試みたことを、いま Richard とともに、二人の記憶を持ち寄って更新している。

1989 年、ベルリンの壁が崩れ、世界の秩序が静かに組み替わりはじめる。この作品を貫く二つの都市と、あの時代を分かち合う盟友、Abosch と Pleuger。それぞれのキャリアを歩んできた二人が、いまどんな感覚のなかにいるのか。どんな技術と視点を身につけ、当時をどう振り返るのか。本作は、それを二人自身が見つめ直すプロジェクトなのだと、自分は受け取っている。

今回二人が組む本作「NEW TRUTH」は、その街を一度モデルの記憶に取り込んでから再度呼び戻すアプローチを計っている。素材となるのは、彼ら自身がロサンゼルスとベルリンで撮りためた写真と、動画から抜き出したスクリーングラブだ。狙いは一貫していて、二つの都市を一枚に融け合わせたハイブリッドな像をつくること。まず、それらの素材から Flux LoRA を組んで画像群を生成し、Kevin 自身が構築したパイプライン(主に Kling)が 5〜6 秒の短い動画を大量にレンダリングする。ただし彼は、その動画を一度も見ていない。プログラムがランダムに静止画を引き抜き、集まった 200〜250 枚から重複を目視で捨て、100 枚に整える。ここまでで、像はすでに一つの感性をくぐり抜けている。その 100 枚を、Abosch と Pleuger がたがいの選択を知らぬまま、それぞれ 12 枚選ぶ。そして両者の選択が重なった点だけを、展示している。

だから、この一致は奇跡的というよりかは、同じ一つの井戸から二人が汲んだのだから、水の味が近いのはむしろ当然だ。二人が賭けているのは、その先にある。現実と像が合っているか(写しとして正しいか)を真実の基準にするのではなく、独立した二つの感性がどこで同じ像へたどり着くか、その収束点をこそ、真実と呼んでみる。外の世界に照らして真かどうかではなく、私たちのあいだで真が立ち上がる場所を測る。展覧会の名が指す「新・真実」とは、たぶんこの向きの真実のことだ。

選ばれた 12 点は、別の image-to-video モデルで 15 秒の映像と音へ立ち上げ直され、解像度はあえて 640×480、かつての NTSC 放送を思わせる粗さまで落とされる。この粗さへの取り組みは、Aboschが取り組む一種の暗号化(encryption)にも似ている。人が何かを暗号化するのは、たいてい恐れゆえか、「誰が・いつ・どこで」を覆い隠すためだ。ただ、ここでの粗さはそれを塗りつぶさず、むしろ「誰が・いつ・どこで」を、かすかに読み取れる余白として残す。たとえばある一枚(03: Blockbuster)では、ベルリンの門を思わせる列柱の前をアメリカの黄色いタクシーが走り、ありもしないビデオ店の名を掲げた公衆電話ボックスが立つ。ビデオ、90 年代、アメリカとドイ‗、そんな指示のかけらから、モデルが記憶を勝手に縫い合わせた跡だ。その一つひとつのほつれを見つけ、なぜこの像がここに集まったのかを想像してみること。それはそのまま、二人が像を選び取ったときの手つきをなぞることでもある。

思えば写真は、その出発点からずっと、記録と作為のあいだで揺れてきたかもしれない。やがて写真は「現実を写す」ことを越え、人々が見たいものを見せる装置になった。SNS の写真は加工され、どこまでが現実か判然としない。テレビやスマホ越しの映像に、これは真実なのか、信じるべきか、そんな問いのあいだで揺れながら、情報とどう向き合うかを、私たちは問われ続けている。

そこへ、AI が生成する情報が加速度的に増えていく。気づけば自分自身もその流れに絡めとられ、そのなかで判断を下し、真実をかたちづくっている。そんな世界が進むいまだからこそ、もう一度、過去のプリミティブなテクノロジーを静かに鑑賞しながら、現代を捉え直してみたい。

インターネット以前、日本の美意識は一つのスタンダードを築いていた、と Kevin は捉える。そして彼自身もまた、多くの「美の基準」をかたちづくってきた作家である。ソニー、ミノルタ、ニコン、数多くの日本のメーカーと仕事を重ねてきた彼が築いた基準は、もしかすると、いまインターネットに流れる情報の、その美のベースになっているのかもしれない。その美的な観点を、ここ日本で、もう一度捉え直す。解像度を、あの頃へ近づけながら。

この展示空間が、そうした感覚と思考にしばし身を浸す時間になることを願っている。
Nori / NEORT++