創造と破壊は、一般には正反対の行為として理解されている。創造とは、それまで存在しなかったものに形を与え、世界に何かを付け加えることであり、破壊とは、すでに存在するものの形や機能を失わせることである。美術も基本的には前者の側に制度化されてきた。芸術家は作品を制作し、美術館はそれを収集し、保存する。しかし20世紀の芸術に入ると、破壊はしばしば制作そのものの内へ取り込まれてきた。こうした実践には、それぞれの破壊が置かれていた歴史的条件がある。とりわけ、グスタフ・メッツガーが1959年に提唱した自己破壊芸術(Auto-Destructive Art)には、戦争と工業社会をめぐる切実な問題があった。

メッツガーは1926年、ニュルンベルクのユダヤ人家庭に生まれ、1939年にキンダートランスポートによってイギリスへ逃れた。両親を含む家族の多くはホロコーストで殺害された。戦後の彼は反核運動に参加し、冷戦下の核軍拡、資本主義、大量生産、環境破壊を互いに関連する問題として考えていく。自己破壊芸術は、こうした経験と問題意識を背景に構想された。1959年のマニフェストにおいて、メッツガーは自己破壊芸術を「工業社会のための公共芸術」と位置づけた。

ここで重要なのは、「破壊」と同じくらい「自己(Auto)」という語である。Auto-Destructive Artでは、作品を成立させる条件そのものに、作品を変質させ、最終的には消滅させる条件が組み込まれている。1961年にロンドンで行われた公開制作では、メッツガーはナイロン布に酸を噴霧し、化学反応によって布そのものを溶解させた。そこで作家が制作したのは、開始された後は作者の手を離れ、時間とともに不可逆に進行するプロセスであった。なぜ、そのような芸術が戦後社会に必要だったのか。
第二次世界大戦とホロコースト、そして核兵器の登場は、人間の破壊的な衝動とともに、それを大規模に実行する社会の能力を明らかにした。20世紀の大量破壊は、科学、工業生産、輸送、通信、計算、官僚的組織といった近代社会の高度な能力と結びついて遂行された。核兵器はその極端な例である。物質世界を理解するために発達した科学的知識と、大規模な研究・生産を可能にする組織が結合することで、それまで存在しなかった破壊能力が生み出された。文明の進化とともに、私たちは破壊を高度化する能力を獲得したのである。

彼が突きつけたのは、創造する能力と破壊する能力の分かちがたい結びつきだった。科学的発見、技術的発明、精密な計算、大量生産、自動化、巨大な組織を運営する能力は、社会を構築するための能力である。同じ能力が、条件によっては破壊をかつてない規模で遂行する能力にもなる。メッツガーの「自己破壊」とは、このように、あるシステムが自ら生み出した能力によって自らを破壊しうるという構造を、美術の内部に導入する試みとして読み直すことができる。

メッツガーが直面した工業社会から、技術が社会を支える仕組みも変化してきた。現在では工場や機械に加え、ネットワーク、データベース、アルゴリズム、クラウド、ブロックチェーン、人工知能といった情報技術が社会の基盤へ深く組み込まれている。それに伴って、「破壊」が起こる場所も複雑になった。情報環境では、装置やデータが残っていても、それらを利用するための条件が失われることがある。データを削除する。アカウントへのアクセスを停止する。履歴を変更する。実装コードを更新する。検証の規則を変える。権限を集中させる。ネットワークから切断する。物理的には残っている対象も、こうした操作によって、それまでの機能や関係を失いうる。

例えば、0か1が記録された装置を、元の値にかかわらず0に戻す操作を考える。操作後の装置を見ても、以前どちらの値だったかはわからない。ランダウアー原理によれば、このように情報を消す操作には、どれほど効率よく行っても、一定量以上の熱を周囲に放出する必要がある。その最小量は、装置が置かれた環境の温度によって決まる。情報を消すという操作も、物質やエネルギーの変化と結びついている。

情報は、電荷、磁化、光、半導体、量子状態など、何らかの物理的状態によって実装されている。デジタル化が進むにつれ、その物質的条件はインターフェースの背後へ見えにくくなっていく。本展が扱う「情報の生と死」も、こうした物質との結びつきのなかにある。メッツガーの物質的な自己破壊を引き継ぎながら、情報の保存や処理を支える仕組みへと目を向け、そのどの水準に不可逆性が生じるのかを考える。

出展作品に現れる破壊は、物質と情報のさまざまな結びつきに及んでいる。《断末魔ウス》では、物質としてのマウスの不可逆的な破壊と、何度でも再演できるカーソルの運動が分離される。《Hatch/et》では、正解の発見、すなわちシステムが目的を達成することが物理的な自己破壊を起動する。《Entropy》では情報そのものを保ったまま、譲渡履歴によって「劣化」が制度化される。《Diminishing Returns》では、システムを使用すること自体が経路を摩耗させる。《@toshiaki_takase: Room》では、情報の削除がアイデンティティを空洞化させる一方、その削除が別の記録として残る。《Alerting Infrastructure!》は、この関係を、ウェブサイトと物理的な建物の間に作り出す。

さらに《upgradeTo(Leviathan)》では、同じデータを読み替える不可逆な移行によって、全体のイメージを形成していく。《assumevalid》では、記録の妥当性を検証しないネットワークが動き続け、そのなかで一台のノードが、誰にも確かめられない計算を続ける。《Collapsed Constellations》では、測定型量子計算において計算そのものがエンタングルメントという資源の消費によって進行し、《Poesia Povera》では、選択し、検索し、削ぎ落とすことが生成の条件になる。

ここには、さまざまな水準における自己破壊がある。物質的な不可逆性、人工的な劣化、履歴の不可逆性、情報の消去、実装の変更、統治権限の変化、検証原理の喪失、計算資源の消費は、それぞれ異なる。この差異をたどることで、何が失われればある対象はもはや同じものではなくなるのか、という問いが現れる。
システムは、形やデータを保ち、作動を続けながら、それを成立させていた原則や関係を失うことがある。計算や利用、更新といった動作が、その変化を内側から進めていく。メッツガーの「自己(Auto)」という語は、こうした過程にも重なる。自己破壊は、目的が達成され、機能が果たされるなかで進み、その過程から新たな形が生まれることもある。何が作られ、何が動き続けているかとともに、その働きによって何が失われるのかを見る必要がある。

メッツガーが作品に組み込んだ自己破壊の過程には、彼の生きた社会に対する問いがあった。工業社会が獲得した科学的知識や生産力、組織力は、核兵器をはじめ、その社会自身の存続を脅かす力にもなった。作品を成立させる仕組みが作品を壊していくという構造は、社会が自ら生み出した能力をどのように使うのかという問題につながっていた。

その結びつきは、今日の戦争と情報技術の関係にも現れている。物理的な兵器と情報処理は密接に結びつき、通信ネットワーク、衛星、位置情報、画像解析、無人システムが兵器の運用を支えている。サイバー攻撃やSNSを介した情報流通も、戦争の遂行と、人々が戦争をどう認識するかに深く関与している。20世紀に大量破壊を支えた工業生産や科学、組織的な能力に、現在では情報技術が組み込まれている。

認証、追跡、画像認識、データ解析といった技術は、私たちの日常生活を成立させているものでもある。社会を築き、維持するために発達した能力が、戦争の遂行へと再編成される。そこで破壊を可能にしているのは、精密に認識し、計算し、通信し、組織を動かす能力である。メッツガーが向き合った、文明が自らの能力によって自らの存続を脅かすという問題は、私たちの生活を支える技術と戦争との間に、いまも存在している。