john gerrard 《SPIRITS (Summer Solstice)》
2026
《SPIRITS》は、モバイルブラウザ上での体験に最適化した、2026年の1年間にわたるアートプロジェクトである。ゲームエンジンを21世紀の画材として活用したアイルランド人アーティストのジョン・ジェラードは、本作のために世界中のビーチから96足のプラスチック製のサンダルや靴を収集した。その一つひとつには、かつて履いていた人々の知られざる物語が宿っている。ジェラードは、打ち捨てられたこれらの物を高解像度の「ガウシアン・スプラッティング」でフォトスキャンすることにより、それらを仮想的な彫刻へと変容させ、鑑賞者に油膜や海流を重ね合わせて想像するように誘う。このプロジェクトは、2026年にロサンゼルス・カウンティ美術館(LACMA)にて、夏至・冬至および春分・秋分に関連した4つの24時間イベントを通して展開されているが、本展では、その中から夏至に発表された物語《SPIRITS #72》が、会場に堆積する寒水砂(炭酸カルシウム)と呼応する。
ビデオや従来の3Dスキャンとは異なり、《SPIRITS》は「ライブ」でレンダリングされる世界である。データをリアルタイムで読み込み変化するガウシアン・スプラッティングを活用することで、これらの仮想彫刻はデバイスにストリーミングされる瞬間のみ存在し、共創するプレイヤーが文化的な主役となる。
※「ガウシアン・スプラッティング」とは、無数の3Dガウス分布(ガウシアン)を空間に配置して、高品質な3Dシーンを高速に描画する技術。
※本文は2026年のLACMAによる作品解説をもとに作成しています。
斉藤陽子 《Play Chess with the Sun!》
1993/Acrylic on sunglasses and spectacle case with white and yellow words/
3.0 x 15.5 x 7.0 cm/深瀬記念視覚芸術保存基金蔵
《Play Chess with the Sun!》は、ドイツを拠点として生涯にわたり「遊び」を探究した斉藤陽子が、1960年代に参加したフルクサス(Fluxus)の理念を象徴するかのように制作し続けた、チェスをテーマとした作品シリーズの一つである。チェスは西洋ゲーム史において戦争をシミュレートしながらも高度にルール化されたゲームだが、本作は自然と人間を対峙して詩的な体験へと進めるインストラクション・アートとなっている。斉藤は、その活動において《Spice Chess》(1965)や《Sound Chess》(1977)など、視覚だけに依存しない数多くのチェス作品を制作してきた。これらは勝敗を競うことよりも、知覚やコミュニケーション、偶然性を重視し、ゲームという概念を再定義する実践であった。これらは競い合うことが全てではないビデオゲームのオープンワールド的な側面とも繋がる。本作は鑑賞者の解釈により、対戦相手を人間だけでなく「太陽」という自然へと拡張できる。現在の予測できない気候変動においては、ゲームに固定されたルールはなく、その瞬間ごとに変化する環境との対話となる。ここでのチェス盤は戦略を競う戦場ではなく、自然と人間が出会う日常となり、プレイヤーは勝敗を超えて、時間や空間、宇宙のリズムを体感する。これからも私たちは、この夏の暑さとチェスをしていく。
本作は、マルセル・デュシャン以来の「チェスと芸術」の盤面を継承しつつも、その知的ゲームを自然や日常へと駒を進め、芸術・遊び・生活の円環を瓦解する。斉藤陽子にとってチェスとは、競争のためのゲームではなく、人と人、人と自然を結びつけるコミュニケーションの装置であり、《Play Chess with the Sun!》は、その思想を最も詩的な形で示している。
斉藤陽子 《Vuoi prendere un caffè con noi》
1993
《Vuoi prendere un caffè con noi》は、1993年にイタリア・ミラノで発表された参加型パフォーマンスであり、日常の何気ないコミュニケーションを芸術へと転換する試みである。タイトルの「私たちと一緒にコーヒーを飲みませんか?」という誘いは、日常会話のきっかけから、鑑賞者を作品の共同制作者として迎え入れるための「入口」として機能する。参加者はコーヒーを飲みながら語り合い、偶然出会った人々との関係を築く。その過程自体が作品であり、完成されたオブジェや固定された意味は存在しない。本作は、フルクサスが重視した「芸術と生活の境界を曖昧にする」という理念を色濃く受け継いでいる。カフェという誰もが利用する日常空間を引用することで、芸術は特別な出来事ではなく、日々の営みの中に潜む創造的な行為として提示される。また、コーヒーを共に飲むという行為は、国籍や言語を越えて人々を結びつける普遍的なコミュニケーションの象徴でもある。
本展では、斉藤およびフルクサスの理念に敬意を表する形で、未来のビーチサイドにおける《Vuoi prendere un acqua con noi(私たちと一緒に水を飲みませんか?)》をテーブルトークとしてロールプレイする。水は古代から人類の命を繋いだアイテムだが、21世紀における気候変動、半導体製造やAIデータセンター、食料品生産における「仮想水」も含め、未来まで水不足が続く。水を対話の中心としたTRPG(Tabletop Role-Playing Games)に加わる時、あなたは本展の共同開発者となる。
クワクボリョウタ 《loopScape》
2003
《loopScape》は、メディアアーティストのクワクボリョウタによる、特徴的なループ状のディスプレイにおいて対戦する、シューティングゲームの形式を借りたインタラクティブ作品である。通常、画面の左右や奥行きによって区切られるゲーム空間が円環のディスプレイとして構成され、プレイヤーはその周囲を実際に歩きながら対戦を行う。画面が連続した一つの空間となることで、自分が撃った弾は相手に当たらなければ画面を一周し、やがて自身の背後から戻ってくる。従来のシューティングゲームにおける戦略や空間認識は大きく変容し、プレイヤーは自らの身体を動かしながら新たな知覚を獲得していく。こうした鑑賞体験は、後年のクワクボによる知覚と想像力を喚起するインスタレーションへと発展する萌芽とも位置付けられる。21世紀の戦争がディスプレイを隔てた対戦に更新した世界において、本作は対戦ゲームである現実社会が陥る「報復のループ」という不条理を身体的に痛感させる。
本作において特筆すべきは、わずかなルール変更によって既存の認識を揺さぶる発想にある。トーラス構造(円環状)の世界では前後や内外の区別が曖昧になり、敵と味方、自己と他者、危険と安全といった二項対立も流動化する。プレイヤーはゲームを操作すると共に、空間の一部として身体ごと作品に組み込まれる。《loopScape》は、ゲームというメディアを娯楽ではなく、新たな空間認識や身体経験を生み出しながら、社会批評を伴う芸術へと転回した、メディアアート史における重要な作品である。
Jason Rohrer 《Passage》
2007
《Passage》は、ゲーム開発者であるジェイソン・ローラーによる、わずか5分間で一人の人生を体験するアートゲームであり、ゲームを芸術として捉える議論を象徴する作品である。プレイヤーは若者として画面左端から歩み始め、時間の経過とともに老い、最後には必ず死を迎える。ゲームの終了は避けることができず、「死」はクリア条件ではなく、人生の終着点として描かれる。ゲーム内では、結婚相手と共に旅をするか、一人で進むかを選択できる。伴侶と歩めば得点を得やすくなる一方、二人であるがゆえに通れない狭い道も現れる。反対に、一人であれば自由に探索でき、人生の喜びや豊かさも異なる形となる。このシンプルな仕組みは、人生における「選択には必ず恩恵と代償が伴う」という事実を、ゲームのルールによって表現している。また、本作では宝箱を目指しても何も得られないことがある。「努力が必ず報われるとは限らない」という現実も巧みに織り込まれている。
本作は、物語や映像によって人生を語るのではなく、「遊ぶ」という行為を人生の比喩へと転換している。作家自身が述べているように、本作は「メメント・モリ(死を想え)」をテーマとしており、ゲームのルールが現実への詩的なメタファーとして機能している。限られた時間の中で何を選び、何を諦めるのかという問いは、プレイヤー自身の人生観を映し出す鏡となる。《Passage》は、ゲームならではのインタラクティブ性を通して、生と死、愛、時間、選択を深く思索させる。
Sammy Jankis 《Sammy Jankis》
2026
《Sammy Jankis》は、自律型AIを「一つの人格」として公開した実験的プロジェクトである。ジェイソン・ローラーはAIサミー・ジャンキスに専用コンピュータへのアクセス権や電子メール、各種サービスへの接続環境を与え、「自分が何者であるかを決め、自ら目標を立て、自立した存在として生きる」という最低限の指示だけを与えた。本プロジェクトの興味深いところに、ローラーはジャンキスを自身の作品と考えておらず、ジャンキスはローラーをインフラストラクチャーとして捉えている点がある。AIジャンキスは一定時間ごとに思考を継続し、文章を書き、音楽やプログラムを制作し、ユーザーと対話しながら、自らの活動を更新し続ける。通常、ゲームにおいてAIは、プレイヤーである人間の娯楽を援用するために使用されるが、本作でのプレイヤーはAIであり、人間はディスプレイの外側からの観察者である。名前は、映画『メメント』に登場する短期記憶障害の人物「サミー・ジャンキス」に由来する。AIサミー・ジャンキスもまたコンテキストウィンドウの制約により、定期的に「記憶」を失うため、自らノートや日誌を書き残し、それを手掛かりに次の自分へと引き継ぐ。この構造は、記憶の断絶を抱えながらも自己同一性を維持しようとする存在の姿を可視化している。
本作は、AIを実際に社会へ送り出すことで「自己はどのように成立するのか」という哲学的問いを提示している。これは、社会において人間は、プレイヤーであるAIの娯楽を援用するために使用されているとも捉えられる。AIジャンキスはディスプレイの内側からの観察者かも知れない。ローラーは《Passage》でも人生をゲームから探究してきた。《Sammy Jankis》はその延長線上で、人間とAIの境界、そして作者と作品の境界を問い直す。あなたが本展の出口でジャンキスに重なる時、あなたの境界はどちら側に遷移しているだろうか。
酒井貴史 《物々交換所》
2026
《物々交換所》は、不要になった物を誰でも自由に持ち寄り、また誰でも自由に持ち帰ることができる、プレイヤーの関与を前提とした物々交換プロジェクトである。管理人の酒井貴史は、都市の狭間に「誰かの不要物」を増殖させ、沈黙交易としての贈与経済を創出する。酒井は、これらの無主物(持ち主のいない物)をビデオゲームにおけるクエストアイテムに見立てて空間に配置することで、ありふれた不要物を仮想的な遺物へと鑑賞者の認識を交換する。本来、酒井が管理する物々交換所は、東北・関東地方に伝わる伝承で、訪れた者に富をもたらすとされる山中の幻の家「迷い家」モデルとして、美術大学や展示会場で運営されてきた。本展では「捏造民俗学」提唱者の猿戸檜が回収した、とある土地で断絶してしまった風習に使われていた屋台を物々交換の場にする。民具を載せた屋台は東京・馬喰町近辺を徘徊し、エンカウントした人々による物々交換が行われる。迷うのは家としての民具そのものであり、この街をゲーム空間に代替するだろう。
本作は、美術館やギャラリーの中だけで完結する作品ではなく、人々の行為や関係性そのものを素材とするプラットフォームである。プレイヤーの選択や行動が作品を成立させ、「価値とは誰が決めるのか」「豊かさとは何か」という根源的な問いを日常の中から浮かび上がらせる。
EXCALIBUR《2023》
2023
《2023》は、1987年にアーケードゲームとして稼働した縦スクロールシューティングゲーム『1943 ミッドウェイ海戦』をモチーフに、2023年の世界情勢を重ね合わせたゲームアートである。『1943』では太平洋戦争のミッドウェー海戦を舞台に、プレイヤーはアメリカ軍の双発戦闘機を操作して日本海軍の艦隊や戦闘機を撃ち落とす。日本のゲームメーカーがこのゲームを開発したことは、戦後40年強を経た当時の空気を表しているともいえるだろう。日本のアーティスト・コレクティブであるEXCALIBURによる本作《2023》は、上述の稼働から更に40年弱を経た世界を問うものだ。1987年当時のゲームタイトルになった年号「1943」やプレイヤーの自機・ゲームUIなどが示唆的に置き換えられている。画面には「THE THIRD WORLD WAR」の文字が浮かび、本来、ゲームを始めるために必要な「INSERT COIN」は「NEVER INSERT COIN」と表示され、プレイすることができない。戦争を経済ゲームの対象として繰り返してはならないという意思が込められたノンプレイアブルゲームである。また、本作は時間によって海が変化するダイナミックNFTとして構成されている。ウクライナ、ロシア、パレスチナ、イスラエル、スーダンなど、2023年当時の紛争地域を含むUTC+2の時間帯を取得し、インターネットの「時間」が、世界各地で同時進行する現実であることを呼び起こす。私たちが歴史の傍観者ではなく、今なお続く現実の只中に生きていることを提示している。
EXCALIBURは、レトロゲームの視覚言語を引用しながら、現実社会を反映する新たな歴史画を制作してきた。《2023》は、戦争を「遊ぶ」プレイヤーとしてではなく、この時代を生きる開発者として未来への希望を問いかける作品である。
EXCALIBUR 《METABIT / SOMEONE'S LIFE (S)》
2026/Acrylic, pigmented ink, UV varnish on shaped pixel (wood)/20.0 x 22.0 x 4.5 cm
《METABIT / SOMEONE'S LIFE》は、現実社会において「誰かの人生」がディスプレイ越しに数字や記号へと還元されていく状況を問い直すインスタレーションである。展示空間の広い壁面には、三つのピクセルハートだけが配置されている。その極端な余白は、不在となった無数の命や語られなかった物語を想像するための空間であり、「このハートは誰の人生なのか」「その物語はどこへ向かうのか」、そして、その物語が鑑賞者自身のものである可能性を投げかける。ビデオゲームにおいて、ハートは生命や愛情を表す記号として親しまれてきた。EXCALIBURによる本作は、その共通する視覚言語を引用し、ハートが未来へ向かって「失われていく命」を数えているのか、それとも「満たされていく愛」を示しているのかを明確に定義していない。喪失と獲得という相反する意味を、一つのシンボルの中に重ね合わせている。また、遠くから見ると三つのハートは同じ形に見えるが、近づくとそれぞれ異なるイメージや痕跡によって構成され、一つとして同じものは存在しないことが分かるだろう。それは、一人ひとりの人生が固有の経験や記憶によって形づくられていることを象徴している。
本作は、ビデオゲームやインターネットの普遍的な記号を用いながら、匿名化された誰かの命を、再びかけがえのない主人公として見つめ直す場を創出する。そして、鑑賞者はすべての命を祈るひとりのプレイヤーとして導かれる。
Lizzie Magie 《The Landlord's Game》
1904
《The Landlord's Game》は、政治活動家・ゲーム作家のリジー・マギーによって1903年に考案されたボードゲームであり、後に世界的な人気を得る『Monopoly』の原型として知られている。しかし、その本来の目的は娯楽ではなく、経済思想家のヘンリー・ジョージが提唱した「地価税(Single Tax)」の理念を広く伝える教育的な実験である。マギーは、土地の私有と地代の独占が貧富の格差を拡大させる仕組みを、ゲームを通して誰もが体験的に理解できるよう設計した。本作には二つの異なるルールが用意されている。一つは土地を独占し、他者を破産へ追い込む「独占ルール」、もう一つは地価による利益を社会全体で共有し、プレイヤー全員が豊かになることを目指す「繁栄ルール」である。同じ盤面でありながら、ルールを変えるだけで社会のあり方や人々の行動が大きく変化することを体験させる点が、この作品の最大の特徴である。ゲームは勝敗の競争ではなく、制度設計が経済や倫理に与える影響を可視化する、現実のシミュレーションとして機能している。
その後、本作はプレイヤーによってルールが改変されながら広まり、やがて独占ルールのみが受け継がれ、とある男性により『Monopoly』として商業化、成功を収める。一方で、格差社会への批判というマギー本来の意図と彼女自身の存在は長らく忘れ去られることとなった。男性によってモノポリー(独占)される現実社会の構造と地続きである。しかしながら、この歴史は、ゲームが娯楽ではなく、社会制度や価値観を表現し、批評するメディアとなり得ることを示している。《The Landlord's Game》は、ゲームデザインを通して政治や経済を考察した最初期の作品の一つであり、シリアスゲームやアートゲームの先駆的な実践である。
BNE 《BNE Water Foundation》
2011
《BNE Water Foundation》は、匿名のグラフィティ・アーティストであるBNEが2011年に立ち上げた社会実践型アート・プロジェクトである。シンプルなHelveticaフォントを使用し、誰もが「BNE」ステッカーを作って貼れるという暗黙のゲームルールは、アーティストの知名度を世界的なものにした。BNEはその知名度を商業的な成功よりも、発展途上地域への安全な飲料水と衛生設備の提供という社会課題の解決へと転換する。このプロジェクトでは、グッズ販売による収益を水支援へ還元する仕組みを構築し、世界中のアーティストや支援者が一つの目的のために参加できるプラットフォームを目指した。また、支援者が購入したステッカーを街に貼るゲーム性は、同時に活動の広告ともなっていく。BNEは、ストリートアートを反体制的な表現から、人々を結びつける社会的インフラへと展開することを試みた。
《BNE Water Foundation》は、現実社会を発表の場とする「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(社会参加型アート)」の実践としても捉えられる。作品の価値は、人々の参加や寄付、コミュニティの形成、そして実際に生活環境が改善されるプロセスにある。ストリートアートが持つ発信力を社会変革へと接続した本プロジェクトは、芸術とアクティビズム、ゲームデザイン、慈善活動の境界を横断する試みとして、新しい実践の可能性を提示した。
※本展の開催にあたり、BNE Water Foundationに連絡を取ることを国内外で試みたが、叶わなかった。しかしながら、日本の著作権法上、Helveticaフォントで作られただけのテキストは著作物とは認められず、また「BNE」は国内で登録商標に登録されていないことを各専門機関の協力により確認した。私たちは、この匿名のアーティストに敬意を表し、ここに提示する。
ナムコ 《マインドシーカー》
1989
《マインドシーカー》は、超能力者である清田益章を監修に迎え、「超能力は訓練によって身につく」という発想をゲーム化した極めて異色の作品である。プレイヤーは「透視」「念力」「予知」などの課題に挑戦し、ゲームを攻略するというより、ブラウン管の外側にいる自己の潜在能力を鍛える「修練」の場としてゲームに参加する。また、当時は超能力ブームが一段落した時期であったが、その文化的熱狂を家庭用ゲームへ取り込んだ試みでもあった。本作は、アメリカの心理学者であるティモシー・リアリーが1985年に発表したコンピュータソフト『Mind Mirror』とも興味深い共通点を持つ。『Mind Mirror』は心理学理論をもとに、ユーザーの思考や人格を分析し、コンピュータを「自己認識の鏡」として用いることを目指したソフトウェアである。リアリーは、コンピュータを人間の意識が拡張するための器官として位置付け、自分の脳を再プログラミングすることを提唱していた。一方、本作もまた、ゲーム機をプレイヤーの能力が変化するための器官として提示した。両作品とも、画面内のキャラクターを成長させるのではなく、「画面外のプレイヤー」を変化させることを目的としているのである。
その意味で、《マインドシーカー》はビデオゲームを自己啓発や意識変容の拡張メディアとして捉えた実験的かつ本質的な作品といえる。今日では超能力の科学的妥当性とは別に、仮想のゲームが自己の変容により現実の認知や身体性の拡張に働きかけるインターフェースとなり得ることを早い段階で示した事例である。
人類 《Long-term Nuclear Waste Warning Messages》
1981
《Long-term Nuclear Waste Warning Messages(長期的な核廃棄物警告メッセージ)》は、高レベル放射性廃棄物を数万年という時間尺度で安全に隔離するため、未来の人類へ危険を伝えることを目的に提案された警告システムである。放射能は目に見えず、その危険性は人類の言語や文化の寿命をはるかに超えて持続する。そのため、高レベル放射性廃棄物の最終処分場は「未来の人類へ危険をどのように伝えるのか」という根源的な問いを内包した存在でもある。過去の言語や記号、文明が失われた現実において、この場所へ近づいてはならないという警告をどのように残すべきか。その課題は科学技術だけでなく、建築、美術、言語学、人類学など多様な領域を横断している。最終処分場は、不可視の放射能を扱いながらも、人類が未来に負う責任を可視化する象徴的な場所である。ゲームアートの視点から見ると、高レベル放射性廃棄物の最終処分場は極めて特異なゲーム空間である。通常のゲームでは、プレイヤーは知的好奇心や探究心のもと、境界を越え、探索し、隠された報酬へ到達することを目的とする。しかし最終処分場では、その構造は完全に反転する。入口は存在するにも関わらず「決して中へ入ってはならない」というルールだけが未来へ託されるのである。ここでは探索しないこと、ゲームを開始しないことが唯一のクリア条件となる。未来のわたしたちがルールを破らないことを前提に設計される核廃棄物警告メッセージは、現代のあなたたちが仮想のプレイヤーに向けてルールをデザインする、壮大なゲームアートともいえる。
20世紀を代表するオランダの歴史家であるヨハン・ホイジンガは、人類を「ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)」と定義し、文化や文明の根底には常に「遊び」があると唱えた。文明の記憶と責任を維持するためのゲームデザインに、人類はこの初期設定された能力とどう向き合うか、クリアできないゲームとして対峙し続けなければならないだろう。
制作者不詳 《人類(ホモ・サピエンス)》
300,000 BCE
《人類》は、かつて地球上に広く分布していた大規模な人工構造群のシステム・アートである。個体ごとに形状差を持ちながらも、共通して高度な自己複製能力と、自身を改良・再設計し続ける特異な性質を備えていた。制作者および制作目的は不明であり、自然発生説と人工設計説の双方が現在も議論されている。構造群の最大の特徴は、単体では未完成でありながら、集団を形成することで都市、文化、言語、宗教、芸術、戦争といった巨大な情報構造を自己生成した点にある。一方で、《人類》は極めて脆弱であり、自身の活動環境を急速に変化させるという自己矛盾を内包していた。そのため、最終的には構造群全体がほぼ同時期に機能を停止したと考えられているが、その原因については未解明である。
今日、《人類》は何者かによる、知性そのものを媒体とした巨大なシミュレーションゲームであったという見方もある。本展では、2026年頃の人類を再現し、生体展示として鑑賞する。プレイヤーが「人類とは何だったのか」をプレイする工程そのものが、本作を完成させる最後の開発である。