序論:堕落論を読み直す

ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』(1938)は「遊びは文化より古い」という命題で知られるが、その終章は遊びの賛歌ではなく、現代における遊びの堕落への警告で閉じられる。本稿は、この堕落論の現在地を確認し、前サイクルの研究が提出した概念「誤用の正典化」との理論的な緊張関係を検討する。既存リサーチ「マジックサークル概念の成立と展開」はホイジンガの境界論の系譜を追ったが、本稿はもう一つの遺産——遊びの規範論——に焦点を当てる。

ピュエリリズム:遊びの形式が精神を失うとき

ホイジンガは『朝の影のなかに』(1935)と『ホモ・ルーデンス』終章で、現代文化の病を「ピュエリリズムpuerilism)」と名づけた。「青年期性と野蛮の混合」と形容されるこの状態では、人々は競技に愛国的・軍事的熱狂を注ぎ込む一方、真面目であるべき事柄をゲームのように扱う。遊びと真面目の境界が壊れ、しかもそこには遊びの自由も真面目の重さもない。

対をなす概念が「にせの遊び(false play)」である。ホイジンガにとってこれは、遊びの外見を装いながら政治的・社会的意図を隠す実践——遊びの形式の目的への流用——を指す。スポーツの職業化への批判も同じ系譜にあり、プロとアマの区別が生まれた瞬間に「自発性と無頓着さ」という遊びの精神が失われるとホイジンガは論じた。日本語圏の遊び論でも、利潤追求を目的とする労働に遊びを従属させるゲーミフィケーションは、シラーからホイジンガに至る伝統からすれば遊びの「堕落」にあたると指摘されてきた。

2025年の再解釈:堕落論は社会理論である

この堕落論は古びていない。Chinese Journal of Sociology 45巻2号(2025)に掲載された Wan SU の論文「Degenerate Agon」は、ホイジンガの遊び理論を「アゴーン(競争)を過度に強調した不完全な文化論」とする従来の批判に対し、競争のなかで人間がいかに共存するかを扱う社会理論として再読する。両大戦間期の政治的対立の激化のなか、ホイジンガは「真面目の領域(Ernst)による遊びの領域(Spiel)への侵略」を全面戦争の脅威として警告した——この読みは、カール・シュミットの敵対理論に対する対案として「政治的人間」を「遊ぶ人間」へ置き換える倫理的構想をホイジンガに見出す。

考察:誤用の正典化との緊張対

前サイクルの研究は、プレイヤーの「誤用」が制度に回収される循環を「誤用の正典化」と概念化した。ホイジンガのピュエリリズムは、これと正確に対称な運動を指している。

  • 誤用の正典化(下から上へ): プレイヤーの逸脱的な遊びが制度の公式機能・公認ジャンルになる。遊びの創造性が形式として制度に生き残る
  • ピュエリリズム(上から下へ): 制度が遊びの形式をまとって真面目な目的を追求する。遊びの精神は空洞化する

開催中の展示「Any% Multideveloper — Reality in Polyphony」が参照するスピードラン文化は、この対のあいだの臨界点にある。バグ利用の正典化はコミュニティの遊びの創造性の勝利だが、それが賞金・スポンサー・記録認定の制度に完全に組み込まれたとき、ホイジンガなら職業化されたスポーツと同じ堕落を見ただろう。誤用の正典化はいつピュエリリズムに転じるのか——この問いは、ジェネラティブアートの NFT 市場化、プラットフォームの創造的誤用の商業的回収など、NEORT が扱う領域全体に開かれている。

参考文献