ピュエリリズムとは、ヨハン・ホイジンガが『朝の影のなかに』(1935)および『ホモ・ルーデンス』(1938)終章で提示した概念で、真の遊びの精神を欠いたまま遊びの形式だけが真面目な生を覆う現代文化の病を指す。ホイジンガはこれを「青年期性と野蛮の混合」と形容した。人々は競技に愛国的・軍事的な熱狂を注ぎ込む一方で、真面目であるべき事柄をゲームのように扱う。遊びと真面目の境界が壊れ、しかもそこには遊びの自由も真面目の重さもない状態である。
これは「遊びすぎ」への批判ではない。ホイジンガにとって真の遊びは自発性と無償性をもつ神聖な領域であり、ピュエリリズムはむしろ遊びの形式を別の目的のために流用する「にせの遊び」——遊びを装いながら政治的・商業的な意図を隠す実践——の帰結である。スポーツの職業化や、利潤追求の労働に遊びを従属させるゲーミフィケーションは、この系譜のもとで「遊びの堕落」として批判されてきた。
誤用の正典化と対をなす概念として読むこともできる。前者は下からの逸脱、すなわちプレイヤーによる誤用が制度に回収されてもなお遊びの創造性が形式として生き残る過程を指し、ピュエリリズムは上からの流用、すなわち制度が遊びの形式をまといながら遊びの精神を空洞化させる過程を指す。スピードラン文化におけるバグ利用の正典化が、賞金・スポンサー・記録認定の制度へ完全に組み込まれる瞬間は、この二つが入れ替わる臨界点にあたる。