合理的無知とは、権利を付与する機関が、その権利が本当に有効かどうかを調べきらないでいることを、能力の不足ではなく費用配分上の選択として説明する語である。新造語ではない。もとは公共選択論が有権者の情報収集について用いた語で、これを特許審査に当てたのがマーク・アラン・レムリー(スタンフォード大学ロースクール教授)の2001年の論文「Rational Ignorance at the Patent Office」(Northwestern University Law Review 95巻4号1495頁)である。レムリーの言い方では、特許庁は自分が発行する特許の客観的有効性について「合理的に無知」であり、その事実を突き止めるのは特許庁にとって高くつきすぎる。

論の支えは数字である。発行済み特許のうち訴訟になるのは数パーセントで、法廷まで行くのは0.2%に満たない。訴訟にも許諾にもならない大多数の特許を丁寧に審査しても、その労力は使われない。だから審査は薄くてよい。

重要なのは、この主張が単独では成り立たないことである。審査を薄くしてよいのは、後で別の場所が濃く調べるからである。レムリー自身が同じ論文の結論でそう書いている——「悪い」特許がすり抜けるのを受け入れるなら、裁判所の有効性判断のほうを強くしなければならない。「裁判所は事実について無知であってはならないし、特許庁がそう言っているというだけで特許を有効と推定してはならない。」

つまり合理的無知は、状態の記述であると同時に、条件つきの取り決めである。先送りした側は、先送りの相手が実際に働くかどうかを引き受けていない。この語を持つと、権利についての文書を読むときの問いが一つ増える。その権利は、誰かが一度でも有効性を判定したことがあるか。

事例

先送りの相手は、経済的に足りない。 レムリーは2005年、経済学者カール・シャピロ(カリフォルニア大学バークレー校)との共著論文「Probabilistic Patents」で、後回しにした先の訴訟がどれくらい働くかを検討している。訴訟になる特許は1.5%、法廷まで行くのは0.1%、そして争われた特許のおよそ半分は無効と判断される。二人が挙げた例では、10社が同じ部品を作る市場で1社が特許を争って勝てば10社全部が実施料を免れるので、どの1社にも争う採算が立たない。二人はこう書く——「特許を無効にすることは、部品の消費者を利する公共財であって、どの1社を利するものでもなく、10社をまとめて利するものでもない。」さらに、付与後の異議手続を起こした会社は業界の言い方で「自分の背中に大きな的を描く」ことになる(Journal of Economic Perspectives 19巻2号75–98頁)。

公共財の不足を埋めるはずの挑戦者は、利害が無いことを理由に外される。 同論文は処方箋の一つとして公益団体に挑戦させることを挙げ、実例として電子フロンティア財団と Public Patent Foundation を名前で挙げた。その翌2006年、消費者団体 Consumer Watchdog がウィスコンシン大学同窓会研究財団の保有するヒト胚性幹細胞培養特許(米国特許第7,029,913号)の当事者系再審査を請求した。特許は維持され、控訴審で Public Patent Foundation の弁護士2名が代理人席に立った。2014年6月4日、連邦巡回区控訴裁判所は本案に入らず控訴を却下する。Consumer Watchdog がこの特許を実施しておらず、実施する予定も述べておらず、許諾も受けていないため、合衆国憲法第3編の事実上の損害を欠くからである。判決文はこう書く——「事実上の損害の要求は、憲法第3編の管轄権の硬い床であり、制定法によって取り除くことはできない」(Consumer Watchdog v. Wisconsin Alumni Research Foundation, No. 2013-1377)。

日本の条文は、入口と出口の非対称を明文で書いている。 特許法第113条は特許異議の申立てを「何人も、特許掲載公報の発行の日から六月以内に限り」できると定める。第114条第4項により特許を維持すべき旨の決定が出た場合、第5項は「前項の決定に対しては、不服を申し立てることができない」と定める。利害関係のある者に開かれた特許無効審判は、第123条第2項により「利害関係人……に限り請求することができる」(e-Gov 法令検索・特許法)。誰でも入れる手続には出口が無く、出口のある手続には利害関係人しか入れない。

著作権では、後回しにする手前の審査そのものが無い。 著作権法第17条第2項は「著作者人格権及び著作権の享有には、いかなる方式の履行をも要しない」と定め(e-Gov 法令検索・著作権法)、ベルヌ条約第5条(2)も権利の享有と行使をいかなる方式にも従わせない(WIPO Lex, Berne Convention)。特許庁の審査に当たるものが無いので、その審査の誤りを正す異議申立ても無効審判も存在しない。ある作品について誰が著作権を持ち、その権利がどこまで及ぶかを訴訟の外で公的に判定する手続は無い。

先送りの相手を狭める提案が、権利を付与した官庁自身から出ている。 米国特許商標庁が2025年10月17日に公示した規則案の §42.108(d) は、当事者系レビューの開始要件として、申立人が「トライアルが開始された場合には……当該特許について35 U.S.C. §102 または §103 にもとづく無効または非特許性の主張を他のいかなる手続においても提起しない」旨の陳述書を提出することを求める(90 FR 48335)。2026年7月22日の別の規則案は、査定系再審査の第三者請求人にすべての実質的当事者を特許庁に明かすことを求める(公衆に対しては非公開を維持する。理由として挙げられているのは35 U.S.C. §315(e)(1) 等の禁反言の執行である。91 FR 46038)。いずれも2026年8月28日時点で規則案であり、最終規則ではない。