残余的コントロール権とは、契約・記譜・規格が明示的に定めていない事柄について決定する権利である。経済学者 Sanford Grossman と Oliver Hart が1980年代に不完備契約の理論のなかで定式化し、Hart と John Moore がさらに発展させた(総称して property rights theory と呼ばれる)。Hart は2016年のノーベル記念講演でこの概念の由来を次のように述べている——「不完備契約について生じる決定的な問いは、書かれていないことについて決定する権利を誰が持つのか、である。我々はこの権利を残余的コントロール権(あるいは決定権)と呼んだ」。そして「これこそが所有権なのだ。資産の所有者は、その使用が契約で特定されていない範囲において、資産がどう使われるかを決定する権利を持つ」(Hart, "Incomplete Contracts and Control", Prize Lecture, 2016年12月8日, nobelprize.org ↗ )。
この概念が芸術と技術の議論にとって生産的なのは、Hart の系がそのまま裏返して使えるからである。彼はこう書いている——「完備契約の世界では、すべての決定が契約に特定されているので、所有権と残余的コントロール権は無関係になる」。逆に言えば、ある領域で作者性・真正性・帰属がなお争点であり続けているなら、それはその領域の記譜が不完備だという徴候である。争点の存在自体が、記譜の穴の測定値になる。
美術の記譜(指示文、アルゴリズム、スマートコントラクト、規格文書)は、しばしば完備性を装う。指示は公開されており、誰でも準拠を判定できる、と。しかし記譜が公開されることと、記譜が決定を尽くしていることは別である。実行のどれを作品として数えるか、どの再現が正典か、どの派生が許されるか——記譜がこれらを定めていないとき、決定権は消えるのではなく、誰かのもとに残る。残余的コントロール権はその「残る場所」を名指す。
重要なのは、この権利が誰に帰属するかが一定でないことである。作家が持つこともあり(作家がそれを行使する公的な行為の系列を 作家の裁可 と呼ぶ)、遺産財団、プラットフォーム、収集機関、あるいは国家の登録簿に移ることもある。したがってこの概念は「誰が決めるのか」を問う枠を与えるのであって、答えを固定しない。ある作品体制を分析するとは、その体制の記譜がどこで沈黙しているかを特定し、その沈黙のうえで誰が決定しているかを追うことである。
事例
ERC 規格が明文で範囲外に置いた決定。 イーサリアムの非代替性トークン標準 ERC-721(status: Final, created 2018-01-24)は、トークンの発行と破棄について「NFT の作成(「ミント」)と破棄(「バーン」)は本仕様に含まれない」と書き、さらに真正性について「どの ERC-721 スマートコントラクトが周知(正典)であるかをクライアントがどう判定しうるかは、本標準の範囲外である」と明記している。規格本文に artist authentic provenance creator の語は一度も現れない(eips.ethereum.org ↗ )。ロイヤリティ標準 ERC-2981 は作家への支払額を照会するインターフェースを標準化したが、「ロイヤリティの支払いは任意でなければならない」と規定し、実行をマーケットプレイスの自発性に委ねた(eips.ethereum.org ↗ )。ライセンスと撤回をオンチェーンで管理しようとした ERC-5218(著者に法学者 James Grimmelmann を含む、created 2022-07-11)は「本標準はライセンスの法的な詳細を定義しない」と述べて URI の記録に留まり、status は Stagnant のまま止まっている(eips.ethereum.org ↗ )。
プラットフォームが留保した裁量。 Tezos 上のマーケットプレイス objkt.com の利用規約は、「当社が……いかなる Crypto Asset の同一性・正当性・真正性についても保証も約束もしない」と宣言する一方で、「理由があろうとなかろうと当社の単独の裁量で」User Content を削除できる権利を明示的に留保している(objkt.com ↗ )。2022年3月から4月にかけて、作家 Tyler Hobbs が自作《Fidenza》の合成派生作品《Royal Fidenza》について objkt.com に権利侵害を通知し、同プラットフォームが制作者のアカウントを停止して売却分の買い戻しを求めた経緯が報じられている(Michael Assis, Right Click Save, 2022年5月13日, rightclicksave.com ↗ )。台帳上のトークン自体は消えず、変わったのは掲載と題名だった。
国家の登録簿への移動。 Hobbs は自身のサイトで「NFT はいくつかの問題をうまく解決するが、著作権と商標によってしか対処できない問題が多く残っている」と書き、名称の独占を商標で確保する理由を説明している(tylerxhobbs.com ↗ )。規格が範囲外と書いた決定が、私企業の規約を経て国家の登録制度に受け渡されている。
行政文書における同じ診断。 国税庁・税務大学校『論叢』第110号所収の露木正人「デジタル社会における新たな財産権に対する滞納処分について-NFTに係る財産を中心として-」は、「NFTの保有の実質的な内容については、法律上当然に導かれるわけではなく、NFTの発行者あるいはプラットフォームが別途定める利用許諾条件によって規定しているのが実情であり、通常、このような利用許諾条件はブロックチェーンの外側で定められている」と述べる(nta.go.jp ↗ )。