不行使特約とは、権利を保持したまま、その権利を行使しないと権利者自身が約束することである。放棄でもライセンスでもない第三の形をとる。放棄は権利そのものを消そうとし、ライセンスは相手に許可を与える。不行使の約束は権利を動かさず、権利者の側の振る舞いだけを縛る。日本の契約実務では「著作者人格権の不行使特約」の形で定着しており、英米の知的財産実務では covenant not to sue または covenant not to assert と呼ばれる。
この形が使われるのは、権利を移転できない場合か、移転しても消せない場合である。日本の著作権法第五十九条は「著作者人格権は、著作者の一身に専属し、譲渡することができない」と定める(laws.e-gov.go.jp ↗ )。譲渡が塞がれているので、実務は不行使の約束で代替してきた。
この概念が有効なのは、「権利を手放した」と述べる文書を、実際に何が起きているかで読み直せるからである。作家が「この作品に制限はない」と書き、団体が「もう判断しない」と宣言するとき、法的に達成されているのは権利の消滅ではなく、その主体が行使しないという状態であることが多い。状態である以上、それは維持されうるし、失われうる。
同時に、この概念は自分の弱点も明示する。約束には相手が要る。相手が特定されていない約束を、誰が、どの手続で執行するのか。約束した個人が死に、法人が解散したとき、それは承継されるのか。これらは概念の外にある問いではなく、概念を使えばただちに立つ問いである。
事例
CC0 の最終層。 Creative Commons のパブリックドメイン献呈文書 CC0 1.0 は、放棄(第2条)が無効と判断された場合にライセンス付与(第3条)へ切り替わり、そのライセンスまで無効と判断された場合の最終手段として、次の一文を置いている——"Affirmer hereby affirms that he or she will not (i) exercise any of his or her remaining Copyright and Related Rights in the Work or (ii) assert any associated claims and causes of action with respect to the Work"(Affirmer はここに、本作品における自らの残された著作権および関連する権利を行使せず、関連の請求権・訴因を主張しないと確約する)。"remaining"(残された)という語を文書自身が使っている。Creative Commons は FAQ でも「CC0 という名前の 0(ゼロ)を文字どおりに受け取らないでほしい。どんな法的文書も、あらゆる法域において、ある作品にかかる著作権上の利益をすべて消し去ることはできない」と述べている(creativecommons.org ↗ 、wiki.creativecommons.org ↗ )。
日本の政府刊行モデル契約。 経済産業省「AI・データの利用に関する契約ガイドライン」(平成30年6月)に収録されたモデル契約の第16条第4項は、「ベンダは、ユーザに対し、本契約に従ったベンダ提供物の利用について、著作者人格権を行使しないものとする」と定める(meti.go.jp ↗ )。CC0 の最終層と同じ形だが、宛先と範囲がどちらも限定されている点が異なる。契約実務における有効範囲については学説が割れており、同一性保持権に関する不行使特約を無効とする見解も存在する(田中宏和「著作者人格権に関する課題と検討——著作者人格権の不行使特約と放棄の問題を参考に——」岡山大学大学院社会文化科学研究科紀要第29号、2010年3月, ousar.lib.okayama-u.ac.jp ↗ )。
献呈と並置された不作為の約束。 パブリックドメインで運用されているデータベースソフトウェア SQLite の寄与者用宣誓供述書は、第1項で著作権上の利益をパブリックドメインへ献呈する一方、第4項で「私自身のオリジナルな著作物であるか、SQLite の既刊バージョンから派生したものである場合を除き、SQLite のウェブサイトに追加の情報を公開しないことに同意する。私は、他の出典からコードを SQLite のコードベースにコピー&ペーストしないことに同意する」と、将来にわたる不作為を約束させる(sqlite.org ↗ )。一度きりの献呈だけでは献呈の状態が保てないことを、書式そのものが示している。
判断しないという宣言。 アンディ・ウォーホル視覚芸術財団は、真贋を判定する認証委員会が2011年に業務停止を承認されて存在しなくなったこと、財団はウォーホル作とされる作品について意見を述べず、真正性証明書も発行せず、他者による認証について論評もしないことを公表している。一方でカタログ・レゾネの編纂は続いており、掲載の可否は決め続けている(warholfoundation.org ↗ )。行使しないと宣言された権限と、行使され続けている権限が、同じ組織のなかで分かれている。
主体を要らなくした対照例。 日本の著作権法第六十条は「著作物を公衆に提供し、又は提示する者は、その著作物の著作者が存しなくなつた後においても、著作者が存しているとしたならばその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならない」と定める。これは約束ではなく、公衆に対して課された禁止であり、約束の主体が存在しなくなっても残る。第百十六条は請求できる者を遺族等に限り、遺言による指定者については死亡の翌年から70年という期限を付しているため、期限の経過後は禁止だけが残り、請求できる者がいなくなる(laws.e-gov.go.jp ↗ )。不行使特約が構造的に達成できないことを、立法が別の手段で達成している例である。