生きられた身体とは、外から観察される物体としての身体ではなく、世界を経験しつつある当事者としての身体を指す概念である。現象学ではフッサールが物体としての身体(Körper)と生きられた身体(Leib)を区別し、モーリス・メルロ=ポンティが『知覚の現象学』(1945年)でこれを主題化した。そこでの身体は世界の情報を受け取る装置ではなく、知覚し運動することによって世界との関係のなかに意味を立ち上げる媒体として捉えられる。見ることはすでに姿勢・運動・志向を含んだ営みであり、主観と客観の分割はこの身体的な経験のあとから立てられる区別にすぎない。
この概念は、映像やディスプレイを用いた作品を論じる際にも参照される。作品が固定した像として一方的に提示されるのではなく、鑑賞者が目で追い、焦点を合わせ、周囲を移動するといった関与を通して経験されるとき、映像は身体と世界のあいだに生じる関係として現れる。知覚を受動的な入力ではなく身体を介した能動的な意味生成として捉える視点は、身体性や運動を作品の成立条件に組み込んだメディア作品の分析に用いられている。