主観と客観の境界とは、観察者の位置や身体に依存して立ち現れる知覚と、誰が見ても同一であることを想定された対象の秩序とのあいだに引かれる区分を指す。認識論では、この境界がどこに引けるのか、そもそも観察者から独立した記述が可能なのかが繰り返し問われてきた。現象学はこの二分法自体を問い直し、世界はつねに身体をもつ主体の側から現れるものであって、客観的空間は生きられた経験を後から抽象したものだと論じる。

視覚メディアの歴史において、この境界はしばしば図法の問題として具体化される。線遠近法は空間内の一点に固定された単一の目を前提とし、平行線を消失点へ収束させることで世界を観察者中心の秩序として組織する。それに対して平行投影やアクソノメトリーは、視点を無限遠に置いて中心を解体し、画面上のどの位置も等価に扱う。前者は主観的な立ち位置を空間の構成原理に組み込み、後者はそれを測量的な均質さと引き換えに手放す。どちらも中立な写しではなく、主観と客観の関係についてそれぞれ異なる取り決めを可視化した約定である。

カメラは一枚のフレームが一瞬を同時に写し取るという想定によって、客観的な記録という地位を得てきた。この同時性を映像処理によってずらし、画面の位置ごとに異なる時刻を参照させると、遠近法的な空間は平行投影に近い構造へと組み替えられ、単一の視点に支えられた客観性の前提が露わになる。古澤龍の《Passing》はこうした操作によって境界そのものを主題化した作例であり、この境界が固定した線ではなく、メディアが空間と時間をどう組織するかによって動く臨界点であることを示している。