第二の囲い込みとは、かつて共有財産あるいは非商品と見なされていた無形のもの——知識、データ、遺伝子配列、ソフトウェアの手法、そして本項が加えるゲームのルール——が、新設または拡張された財産権によって覆われていく過程を指す。法学者ジェイムズ・ボイルが2003年の論文「The Second Enclosure Movement and the Construction of the Public Domain」(66 Law and Contemporary Problems 33-74)で定式化した確立した術語であり、本 Wiki のリサーチによる新造語ではない。ボイルは同論文37頁で「われわれは第二の囲い込み運動の途中にいる。それを『精神の無形コモンズの囲い込み』と呼ぶのは大げさに聞こえるが、きわめて実質的な意味でそれはまさにそのとおりのものである」と書いた。「第二」と呼ばれるのは、18世紀イングランドで共有地を柵で囲い私有地に転換した第一の囲い込み運動の再演として捉えられているためである。

公共ドメイン(パブリックドメイン)との違いに注意を要する。パブリックドメインは権利の及ばない領域という状態を指すのに対し、第二の囲い込みはその領域を縮小させる過程を指す。ボイル自身、パブリックドメインは救われる前にまず「発明」されなければならないと述べており、囲い込みという過程を名指すことがその発明の第一歩に置かれている。

ゲームの領域におけるこの過程の標本が、ザ・ランドロードズ・ゲーム(家主のゲーム)からモノポリーへの移行である。土地独占の害を教えるためにリジー・マギーが作ったゲームは、大学生やクエーカー教徒の手製の写しとしてフォークゲーム化し、ルールも通りの名も共同体ごとに書き換えられていた。誰も所有せず、正典もない状態である。1935年、チャールズ・ダロウパーカー・ブラザーズは同じ機構を米国特許第2,026,082号として再特許する。その本文は、マギーが1924年の特許第1,509,312号に自ら書き込んだ単一税への言及を含まず、先行する二通の特許も引用していない。囲い込まれたのは思想ではなく機構であり、機構だけを私有すれば主張は落ちた。囲い込みの対象が囲い込み批判の教材だったという再帰性が、この事例を特に鋭くしている。

さらにこの事例は、囲い込みが不可逆な一方通行ではなく可逆な争いであることを示す。1982年、第9巡回区控訴裁判所は購買動機の調査に基づいて「MONOPOLY」の語が一般名称化したと判断し、商標登録を無効とした(ラルフ・アンスパックの訴訟)。名はいったん公共へ戻った。だが1984年、連邦議会はランハム法(15 U.S.C. §1064(3))を改正し、一般名称化の判定基準は「購買動機ではなく関連公衆に対する標章の主要な意義」であると法文で定めて、判決の依拠した基準そのものを退けた。判決が開いた扉を立法が閉じたのである。囲い込みは事件ではなく、司法と立法のあいだで押し合う継続的な圧力として理解されるべきである。

そして囲い込まれた後の帰属の返還は、囲い込みの解除を意味しない。2025年9月15日、英国王立造幣局はハズブロとの共同企画による90周年記念50ペンス硬貨のプレスリリースで、モノポリーが「リジー・マギーによって作られ、ヘンリー・ジョージの経済理論に着想を得た『The Landlord's Game』から発展した」ゲームであると明記した。名は返されたが権利は返されていない。批判者の名だけが由緒として制度に組み込まれるとき、その再帰属はむしろ囲い込みを強化する。

事例

第二の囲い込みは、デジタルアートの領域のほぼ全域に走っている問いである。ジェネラティブアートのコードとアルゴリズムはどこまで私有できるのか。NFTは作品の希少性を発明したのか、それまで共有されていた複製可能性を囲い込んだのか。マルチデベロッパー的に多数の手で書き継がれた作品は、誰の名で登録されるのか。スピードランにおける Any% 的な実践——バグや裏技という、開発者が意図しなかった経路の共有——もまた、ルールの余白という無形コモンズの上に成り立っており、その余白は公認カテゴリ化や機能実装を通じて囲い込まれうる。

この概念は、関連する二つの概念のあいだに欠けていた項を埋める。誤用の正典化はプレイヤーの逸脱が制度へ回収される上昇運動を、ピュエリリズムは制度が遊びを侵して幼稚化させる下降運動を指していた。開いていた問いは「誤用の正典化はいつピュエリリズムに転じるのか」である。囲い込みがその臨界点を名指す。ルールが誰にも所有されていない状態では、そもそも正典を宣言する主体が存在せず、正典化は起こりえない。正典化が可能になるのは、どの変種を公認するかを決める法的権限を制度が獲得したとき——すなわち囲い込みが成立したときだけである。

ここから次の問いが立つ。ジェネラティブアートやライブコーディングの実践において、ルールの共有と私有の境界はいまどこにあるのか。プラットフォームの利用規約は、第一の囲い込みにおける柵に相当するのか。そして、囲い込みに抗する側の道具立て——コピーレフト、公共ドメイン(パブリックドメイン)への意図的な放棄、フォークの権利——は、ゲームやジェネラティブ作品においてどのような形をとりうるのか。