不透明性の政治学(Politics of Opacity)は、情報の透明性が民主主義や自由の前提として称揚される一方で、監視やアルゴリズムによる分類・評価に対抗するために「見せないこと」「消すこと」を積極的な政治行為として捉える考え方である。あらゆる個人データが収集され、全数評価(Total Quantification)へと組み込まれる状況からの逃走戦略でもある。この考え方の源流のひとつは、マルティニーク出身の思想家エドゥアール・グリッサンが『関係の詩学』(1990)で掲げた「すべての人に不透明性への権利を」という要求にある。グリッサンは不透明性を、他者を対象化し還元する「透明性」に抗う倫理的な立場として示した。
この立場では、不透明性は単なる情報不足や欠落ではない。むしろ、秘匿、ノイズの付加、自己破壊的な情報の消去などを通じて、個人の他者性(Alterity)をアルゴリズムによる搾取から守る実践として位置づけられる。ザック・ブラスの「Informatic Opacity」や「Facial Weaponization Suite」は、生体認証アルゴリズムが顔を識別できないようにし、デジタル空間での不可視性を確保しようとする例として挙げられている。
また、関連する議論では、プロトコルによる制御に対して、その脆弱性の利用やオルタナティブな規約の創出が対抗手段として示されている。つまり、不透明性の政治学は、透明性を無条件に善とみなす見方を問い直し、情報の空白や匿名性を自由を保護するための戦略として再評価する枠組みである。