時間・空間の認識とは、対象の位置関係や奥行き、運動、そして出来事の前後や持続を人がどのように把握するかという問題を指す。カントが空間と時間を経験に先立つ感性の形式と位置づけて以来、これらは世界のなかにある性質というより、経験がそこに整理されるための枠組みとして論じられてきた。知覚心理学は、両眼視差や運動視差、遮蔽、遠近法的な収束といった手がかりから奥行きが構成される仕組みを明らかにし、現象学は、そうした認識がつねに移動し行為する身体の側から成り立つことを強調した。
この枠組みは技術によって歴史的に組み替えられてきた。線遠近法は、固定された単一の視点と消失点へ収束する秩序という約定によって空間を組織し、写真とカメラは、一枚の像が一瞬を同時に写し取るという想定を通じて時間を切片として扱えるものにした。鉄道による移動は近景を流れ去る帯へと変え、風景を車窓の平面に押しつけるパノラマ的知覚を生み、同時に運行の必要から標準時が敷かれて、地域ごとの時間が均質な時刻へと統合された。移動が身体の労力から切り離されるにつれ、空間は通過されるべき距離として経験されるようになる。
デジタル処理は、こうして固まった前提をあらためて可変にする。映像を時空間の立体として扱い、画面の位置ごとに参照する時刻をずらせば、遠近法的な空間は平行投影に近い構造へと変容し、鑑賞者は一瞬の断面ではなく時間の厚みを伴う像に向き合うことになる。古澤龍の《Passing》はこの操作を主題化した作例であり、時間と空間の認識が技術・メディア・身体の相互作用のなかで構成されることを示している。