信の遂行とは、参加者が虚構を「信じてみせる」ことによって作品の枠組みを成立させ、維持する作業を指す語である。本項の造語ではなく、ジェイン・マゴニガルが2003年のDiGRA会議論文「A Real Little Game: The Performance of Belief in Pervasive Play」で提示した術語であり、代替現実ゲーム(ARG)のプレイヤーに広く帰せられてきた「信じやすさ」や「心理的な脆さ」を、プレイヤー側の戦略的な遂行として捉え直すために導入された。
マゴニガルの主張は二重の否定として組み立てられている。第一に、参加者は虚構を本当に信じてはいない。遂行された信念は本物の信念に滑り落ちない、と彼女は述べる。第二に、にもかかわらず参加者は信じているように振る舞い、その振る舞いは作品の側の隠蔽が破れたあとも続く。したがって問うべきは「参加者はどこまで信じてしまうのか」ではなく、「どんな目的と快楽のために、参加者は自分の演技を信じるふりをするのか」である。
理論的な系譜として、マゴニガルはリチャード・シェクナーの「make believe/make belief」の対(現実との境界を保護する遊びと、意図的に曖昧化する遊び)を参照しつつ、参加者の自覚の度合いを測る枠組み自体を退ける。表象的な遊びの枠は、もっとも信じられそうな遂行のなかでも参加者には見えている、というのが彼女の反論である。もう一つの系譜は映画研究のトム・ガニングで、1895年のリュミエール『ラ・シオタ駅への列車の到着』で観客が逃げ出したという神話を再検討し、初期映画の観客は素朴に信じたのではなく自覚的に信じるふりをしていたと論じ、これを「[in]credulous spectator([不]信の観客)」と名づけた。括弧の中身を隠し、信じている部分だけを提示する観客である。信の遂行は、この観客像をデジタル時代の参加型作品へ引き継ぐ語だといえる。
この概念が鋭くなるのは、隠蔽の破綻が記録されている事例においてである。2001年の『The Beast』では、開始2週間で WHOIS 検索によって制作元が特定可能になり、まもなく背後にマイクロソフトがいることも判明していた。それでも参加者の多数派は、その手を使わないこと、判明した名前を掲示板に書かないことを選び、「魔法使いのカーテン」を覗かない慣行を自ら作った。ここで境界を維持していたのは作者の権限ではなく、参加者の側の自己制限である。マジックサークルが外から引かれた線ではなく、内側から更新される協定として観察される点が、この語の含意の核心にある。
反面、遂行が停止する瞬間、あるいは遂行の相手が存在しない場合には、同じ構造が別の帰結を生む。2001年9月11日、ARG プレイヤーの集団が現実の事件に集団解析を向けようとしたとき、彼らを制止した言葉は「これはゲームではない」——虚構を現実として振る舞わせてきたはずの同じ一文だった。信の遂行は、いつ何に対して行うかを誰かが決めなければならない作業でもある。
事例
ジェネラティブアートやAI生成作品の鑑賞は、この語の射程にそのまま入る。鑑賞者はシステムが自律的に振る舞っていると信じてみせるが、シード値の固定、手作業による介入、出力の選別といった裏側は、多くの場合は問えば分かる。問わないことは無知ではなく遂行である。ブロックチェーン作品における「オンチェーンである」ことへの信、AIアートにおける「モデルが生成した」ことへの信も、検証可能でありながら検証されないまま維持される点で同型である。信の遂行という語は、この検証の停止を鑑賞者の欺瞞としてではなく、作品体験を成り立たせている構成要素として名指すための道具になる。
この語は「われわれは巨大なマジックサークルの内側にいる」という形の診断に修正を一つ加える。円環の外側が不可視なのは視力の問題ではなく、見ないという協定の問題でありうる。ならば円環を破る行為とは、外側を探すことではなく、すでに手元にある調査能力を封印しないことになる。